2008年10月08日更新
この土地にしようと決めた瞬間
2007年の冬ごろから、私たちの土地探しはA不動産という業者を通して行うようになっていました。求める地域に本社があり、営業マンの対応も無茶なところがなかったので付き合いやすかったのです。会社に訪ねていくと、社員がきちんと挨拶してくれて、非常に常識的な接客をしてくれました。当たり前のように聞こえますが、私が土地探しをしている間に出会ったほかの不動産業者には挨拶もろくにしないような人も少なくありませんでした。 A不動産では半年ほどの間に担当が何人も入れ替わりましたが、「営業の世界はそんなもんなんだろう」と気にしませんでした。最後に担当になったのはBさん。若手で体格もよく、はきはきと気持ちのいい対応をしてくれたものです。 そんなある日。妻がいつものようにインターネットで物件情報を検索すると、JR総武線の沿線で1000万円台の土地を発見しました。総武線沿線は人気があるため、東武野田線やJR武蔵野線よりも相場が高いのですが、電車の本数が多く、終電も遅くまであることから第一希望にしていました。 「駅から徒歩17分だって」、「なんとか歩けるね」、「面積も30坪あるよ」、「古家付きだけど1480万円か」、「悪くないんじゃない」。さっそくBさんに連絡を入れ、現地に連れていってもらうことになりました。 その頃、妻は妊娠しており、臨月まで間もない状態。本格的に土地探しを初めて1年近くになることもあり、「そろそろ決めたい」という思いも心の底に湧き出ていました。 最寄り駅からBさんの運転する車に乗り、まだ見ぬ土地へ。車窓から周囲の様子をきょろきょろうかがい、駅前周辺の店舗をチェックします。「本屋よし、コンビニよし、100均ショップよし、スーパーよし、ん? これは居酒屋か。郵便局がないな。うちで使っている銀行のATMもないな。ん~、けっこうアップダウンのある道だな。でも歩道がちゃんと確保されているのはいいぞ。人通りもそれなりにあるし、途中にコンビニもあるから、夜も真っ暗ということにはならなさそうだ…」。 大通りから1本中に入って住宅地へ車が進みます。小さな川を渡って、右に曲がりました。そこは私道沿いに住宅が逆Uの字に取り囲む一角でした。どうやらそこは同時期に造成され、売り出された土地のようでした。 「こちらになります」。目に入ったのはブロック塀の上にのしかかるように茂ったみかんの木。昭和51年に建てられた木造住宅の庭は日当たりがよく、何本もの庭木が密集していました。 今までいくつもの狭小地、密集地を巡ってきた私たちにとって、その日当たりのよさはとても魅力的に映りました。私の場合、古家があるときはとりあえず敷地の周囲をぐるりと回って近隣の状況を確認します。お隣との距離が近すぎないか、裏手にどんな建物があるかもチェックします。その土地の南と西には高い建物がなく、一日じゅう日が当たることが見て取れました。 そしてカギを開けてもらい、古家の中へ。よくある木造2階建てで床面積は20坪そこそこ。「もう少し広い家にしたいね」と妻がささやきます。部屋に残っていたカレンダーから今年まで人が住んでいたことがうかがえましたが、建物自体はすでに老朽化しており、床にもはっきりとわかる傾きが。「リフォームして住むか」という色気もこれでなくなりました。 1階の障子を開けて庭を眺めます。決して広くはないけれど、いろいろな種類の植栽がにぎやかにひしめいています。「この家に住んでいた人が大事に手をかけていたんだな」ということが伝わってきました。2階のベランダにも出てみました。きしむ足元に気を取られながらも、眼前に広がる青空が気持ちよく感じられました。 そのとき、それまでに味わったことのない、手応えが確かに感じられたような気がしたのです。「悪くないね」。妻も同意見でした。そして、私たちの信頼する建築のプロにもこの土地を見てもらうことになりました。 次回は、家づくりのパートナーをご紹介しながら、その人に依頼するまでの「建築家巡り」についてお話しします。- 渡辺圭彦プロフィール
- 1970年生まれ。上智大学文学部新聞学科卒業後、扶桑社「新しい住まいの設計」編集部に勤務。その後、(株)ハウジングエージェンシーを経て、編集・制作会社へ。2004年よりフリーに。著書に「家づくりのホント~欠陥住宅にハマらない心得」(週刊住宅新聞社)など。2009年2月に自邸が竣工。