2012年05月23日更新
宮城県でボランティア
被災地のために何ができるか。
何を望まれているか。
東日本大震災が起きてからずっと、
多くの日本人は考えているのではないか。
私自身考え、そして僅かばかりの義捐金を出すだけで、
1年2ヶ月も経ってしまったが、2012年5月、
ようやく初のボランティア活動に、現地へ行けた。
行ったのは、宮城県東松島市。
かの景勝地、松島の東に位置し、奥松島とも呼ばれる静かな地域だが、
地震に伴う津波で市街地の65%が浸水し、
全国の被災市町村中最大の被害となった。
死者・行方不明者は1100人を超え、
全壊、大規模半壊、半壊の家屋が全体の約73%、
一部損壊を含めると約96%というから、
市内のほとんどの家屋が何らかの被害を被ったことになる。
流出を含む全壊家屋は5千戸を超えている。
なぜその東松島市に行ったのかというと、
私の住んでいる東京都大田区が、
震災直後に東松島市に支援物資を輸送したのをきっかけに、
災害時相互応援関係となり、現在でもほぼ毎週
現地へ行く宿泊ボランティアを募集。
そこへ応募、参加したのである。
行程は2泊3日、大田区役所から朝6時の高速バスで出発、
現地まで約6時間。
往復のバスは無料だが、宿泊費は1人1泊千円を支払う。
現地での食事は自前で、作業着、長靴等、必要な装備も自前で用意する。
私が参加した日の活動は、主に、被災されたお宅の敷地の草刈り。
お宅と言っても家は既になく、空地となった土地を放置しておくと
すごい勢いで雑草だらけになるために、人海戦術で順番に草刈りを
請け負っているらしい。
その土地の状況により、草だけ刈る場合と、
流れ着いた砂や汚泥も一緒にスコップで掬い取り、
土嚢に詰める作業とがあった。
スコップで泥を掘ることも、土嚢に詰めることも、
その土嚢を一輪車で運ぶことも、ほとんどやったことがない
軟弱な私は、20分程作業しただけで汗だくになるという体たらく。。
途中で雨も降ってきて、海岸にほど近い現場には
冷たい強風が吹き荒れ、5月というのにかなり寒くなってきた。
大震災が起こった3月11日は、吹雪だったという。
津波で濡れて救助を待った方々は、どんなにか寒かったことだろう。
今でこそ、がれきはがれきでまとめられ、壊れてしまった
家は既に撤去されるなど、町はある程度きれいにはされているが、
被災直後の現地の悲惨さは容易に想像できた。
住民の方々の受難は言うまでもなく、間もなく行った
ボランティアの作業も大変だったろうと思う。
津波以来、陸地だった部分に水が残り、浅瀬のようになってしまっている。海から遠く離れた山の近くでも、山にはないはずの葦が生い茂るなど、津波の影響が見られた。
活動の休憩中、津波の際に住民が登って避難したという、
小高い山に登ってみた。
写真はその頂上からの風景である。
震災前は田畑や住宅のあった陸地に津波が押し寄せたため、
今は海とつながって浅瀬のようになってしまっている。
そして、写真には写っていないが、近くには、
指定避難所だった野蒜小学校がある。
多くの方が体育館に避難し、津波にのまれて命を落とした小学校だ。
すぐそばを走る仙石線も、線路や駅が津波で破壊され、
この地区は不通のままである。
町の半分以上が水浸しとなり、
多くの大切な人、家が流されてしまった地域。
私がほんの少しだけ草を刈って、
どれだけの助けになったのだろうか。
言葉がないとは、このことだと思う。
今はただ、亡くなった方々の魂が安らかであること、
住民の方々が日常を取り戻し、町がよりよく再興されることを
願うばかりである。
- リビングジャーナリスト・「家の時間」編集主幹
中島早苗 1963年東京生まれ。日本大学文理学部国文学科卒。アシェット婦人画報社で12年在籍した住宅雑誌『モダンリビング』を始め『メンズクラブ』『ヴァンサンカン』副編集長を経て独立。約20年間400軒あまりの家と家族、建築家、ハウスビルダーなどへの取材実績を基に、「ほんとうに豊かな住まいと暮らし」をテーマとして、単行本や連載執筆、講演等活動中。著書に『建築家と家をつくる!』『北欧流 愉しい倹約生活』(PHP研究所)『やっぱり住むならエコ住宅』(主婦と生活社)『住まい方のプロが教えるリフォーム123のヒント』(日本実業出版社)『建築家と造る「家族がもっと元気になれる家」』(講談社+α文庫)他。