2014年01月02日更新
親の介護問題とインコと沖縄移住
新居で暮らしはじめて約1カ月。感慨に浸る間もなく、防水・遮熱のための塗装工事、造園・フェンス工事と続き、落ち着かない日々を送っていたが、年末ぎりぎりでなんとか形になり、無事に新年を迎えることができた。部屋の中を整えていくのは、ゆっくりやっていくことにしよう。
沖縄移住に関するこのコラムも今回が最終回。何をお伝えしようかと悩んだが、ペットの話をしておこうと思う。犬でもなく猫でもなく、我が家のペットはセキセイインコなのだが。なぜ移住の話にペットが関係するのかと疑問に思われるかもしれないし、人間の子どもと一緒にするつもりもないが、孟母三遷。移住を決意したのは、セキセイインコがやってきたことが最後の引き金になった。
もう一つはシビアな話。なぜ沖縄だったかの根本かもしれない。親の介護問題だ。
まずは、インコが移住の引き金になったことから。4年前にさかのぼる。東京のマンションのベランダから聞きなれない鳥の鳴き声がし見てみると、ベランダの淵にセキセイインコがとまっていた。手を差し伸べると飛び乗ってきて、「こんにちは」って顔をして私を見た。どこからか間違って飛び出してきてしまったのだろう。まだ幼いように見えたし、やせ細ってもいた。保護する一方、ネットの迷いインコのサイトなどで呼びかけた。すぐに見つかるだろうと思って、あまり情をかけないようにしていたのだが、一向に飼い主が現れない。「これは困ったな、飼うことになるか・・・・・・」。
困ったな、というのは、沖縄へはダイビングで頻繁に通っていたため、ペットを飼うことはやめていた。家を空けることができなくなるからだ。しかし、インコがやってきてしまった。もう再び空へ放り出すことはできない。いつの間にか愛情をたっぷり注いでいる自分がいた。
だからといって、沖縄に行くことをやめたわけではない。そう、インコを連れて飛行機に乗り、沖縄へ行くことになったのだ。私はできるだけ格安の航空券を取って節約を心がけるのだが、インコは必ず片道5000円かかる。往復で1万円。かなり痛い出費だけど、留守番をさせるわけにもいかず、さらに言えば、インコがそばにいないことに私が耐えられなくなっていたのだ。ホテルもそう。ペット可のホテルはあるけれど、犬、猫を想定していて、インコを連れての宿泊を想定しているホテルはそうそうない。そこでウイークリーマンションを借りて沖縄に滞在するようになったのだが、それも限界。ついに、アパートを借りることになった、というわけ。
沖縄移住にあたって、いろいろな理由や思いはいくつもあるが、最後の引き金を引いたのは、インコだった。長生きしても十数年の命。あちこち連れ回すのではなく、私にとってもインコにとっても安住の地を確保したかったのだ。それは東日本大震災も影響していた。震災当日、私は外出していて、家に帰り着いたのは夜中だった。部屋の中は物が多少倒れた程度で大きな被害にはならなかったけれど、インコがトラウマになってしまったようだった。余震が続く中、少し揺れただけでもパニック状態に陥るようになってしまった。あれだけの揺れだ。たかだかインコだけど、されどインコ。インコ1羽、物が倒れる中、どう過ごしていたのだろうと思うと、かわいそうでならなかった。小さい脳みそで、ちょっと前に起きたことなど忘れてしまうけれど、こと揺れに関しては、恐怖心が植えつけられてしまったのだろう。沖縄のアパートに連れていくと、安心しているのがわかった。
沖縄に移住してから、家を留守にすることが何度かあった。東京では1泊ぐらいは留守にすることがあったが、2泊以上はどこへ行くにもインコを連れていった。けれど沖縄に来てからは、2泊、3泊ぐらいは留守番をさせる。近所に住む友人が様子を見に来てくれるからだ。これが沖縄の良さというか気軽さというか。東京でも様子を見に行く、預かると言ってくれる友人はいたが、どうも、わざわざ来てもらうのが申し訳なく頼みにくかった。けれど沖縄だと、「ついで」という気軽さがある。心理的な距離感も近いのだ。
沖縄移住は、もちろん自分のこれからの暮らしを考えてのことだが、インコがやってこなかったら、決意するのに時間がかかったかもしれない。
■心も体も元気で生活していくためにもうひとつ。根本的な問題をクリアするために沖縄に移住したことを書いておこう。よく知人からは「思い切って沖縄に移住したね」と言われる。確かに傍目からするとそうだろう。でも私は必死だった。それは、自分の精神状態を保つためには、沖縄に移住するしかなかったから。
2年半前、母が脳梗塞で倒れた。そのときに実は土地探しは始まっていたのだが、母の介護で話はとん挫。もう頻繁に沖縄に行くことすら無理だと覚悟を決めた。幸い命には別条はなく、一次病院は1カ月ほどで退院することができた。その後、左半身に麻痺が残ったためリハビリ病院に転院し、母も回復に一生懸命で、見違えるようにどんどん麻痺が改善されていった。その間、私は実家に戻り、実家で仕事を続けていた。しかし、これがいけなかった。介護ウツとも呼ぶべき精神状態に陥り、ある日突然、パソコンに向かっても一文字も書けなくなってしまったのだ。
考えてみれば、大学で東京に出てから、1週間以上実家に滞在することはなくなっており、もともと父との関係があまりよくなかったこともあり、実家に1カ月以上いることに精神的に参ってしまったのだ。親不孝かもしれないけれど、やはり親と一緒に住むのは無理だと思った。母をリハビリ病院から、老人保健施設に移す手配をして、私は東京に戻ることになった。しかし、もう仕事を続けることができなくなってしまった。完全にウツ状態に陥り、生きる意味すら見いだせなく、毎日眠れない日々を過ごすことになった。
このままではダメだという気持ちだけは残っていたので、最後の賭けともいうべき決断が、沖縄に土地を買って家を建てることだった。自分が好きな場所で好きな住宅建築で体と心を動かせば、前に進めると思ったのだ。また、そうはいっても、最後の最後は実家で両親の介護をすることは既定路線。本当に帰る場所が沖縄にあれば、どれだけ介護が続くかはわからないけど、頑張れる気がしたのだ。
よく沖縄に移住して花粉症が治った、アレルギーが出なくなったという話を聞く。私はウツが治った。まだ完全ではないけれど、こうして仕事ができるまでになっている。家が完成してからは、毎日あきれるほど熟睡だ。
親の介護は誰にでも訪れることで、そのときにどう対応していくのかは、家族で考え最良の選択ができるのに越したことはない。私には姉もいるので、私ひとりの負担ということではないし、そもそも親の介護を負担と言ってしまうのもはばかれる。しかし私は現実的に精神的に参ってしまい、生活環境を変えることでしか、乗り切ることはできなかった。幸い母はすでに家に戻り、最低限の家事はこなしている。父と二人でもうしばらくは生活してもらおうと思う。沖縄は遠いかもしれないけれど、何かあればもちろんすぐに帰れる。海外ではないわけだし。
沖縄の地域のおばぁを見ていると、本当に元気だ。母よりもみんな年上なのに。そして、私にいつもこう言う。「お母さんを連れてきなさい」と。「沖縄にいたら、元気になるさあ。やることはいっぱいあるよ」と。
『私、沖縄に移住しました。』が電子書籍になりました(2015年9月25日)。
「あれから2年。沖縄で過ごした春・夏・秋・冬」も書き下ろし。どうぞご覧ください。
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なんだかんだ言っても、セキセイインコの「ぷう」は、キラキラ光るものがあれば満足らしい。新居でもお気に入りのキラキラを見つけて、話しかけている。
【私、沖縄に移住しました。】
<第1回>50歳、オンナひとり、沖縄に移住したわけ
<第2回>沖縄移住でよかったこと、ありえないこと
<第3回>どのエリアに住むかで、暮らしも住まい選びも変わる
<第4回>沖縄の不動産事情~3つの賃貸マーケットがある
<第5回>沖縄の我が家がようやく完成!超難産だったわけ
<第6回>親の介護問題とインコと沖縄移住
- フリーライター(2級ファイナンシャル・プランニング技能士)
伊藤加奈子 1963年生まれ。法政大学文学部日本文学科卒。リクルートにて不動産、住宅、マネー系の編集部を経て2003年に独立。以降、フリーランスでライフスタイル誌の創刊・編集に携わる。のち、マネー誌の編集アドバイザーを務め、現在は、主にWEBサイトで住宅、マネー関係の記事を執筆するかたわら、25年の編集者経験を生かし人材育成に努める。2級ファイナンシャル・プランニング技能士。All About マネーガイド
2013年4月に住み慣れた東京を離れ、沖縄に移住。と同時に、RC住宅を建築することを決め、2013年3月着工。11月に竣工した。